音楽療法の場作り

場作りの大切さ

治療や療養の場であればこそ、安心して身をゆだね、ときには集うこともできるくらしとつながった場が必要ではないでしょうか。

病院や施設で音楽療法をおこなう場合、くらしと音楽のかかわりを生かす工夫が必要です。そうした工夫無く、単に音楽をもちいれば音楽療法であると呼んでしまうと、レクリエーション的な意味すら失われ、参加を促される人たちにとっては、音楽療法という名を借りた気の重い場なってしまいます。


音と音楽の響きと、からだを使っての演奏や表現活動を活かす場作りを考えてみましょう。

音楽療法の場を作る前に、あなたや家族が、一人でまたは友人とくつろぎ、楽しめる場を思い出してみまましょう。どんなに小さな場であっても、何かしら、そうしたくらしの中のひとと音楽のかかわりが、うまく取り入れられているとき、ひとはそこに足を運び、安らぎ、癒されます。

お互いの違いを超えて、共に受け入れ尊重するという、ノーマライゼーションの理念に対する配慮がなされていれれば、療治・療養における音楽療法の場としては充分です。過剰な場作りは、療養している者の身には負担が大きいものです。

[ほっと休まる空間]

音楽が流れる静かな空間、全体がひとの立位の視線より少し低めの高さになるように設定された、フラワーボックスや、移動式の雑誌棚、そうしたものが配置されているだけで、広い場であっても、ソファーに腰を下ろせば、視線の被爆が無くなり、周囲から保護された空間が生まれます。

病気になると、からだが自分を守っているという感じが弱まり、弱ったこころとからだをそのまま外界にさらしているような感じがします。

そんなときには、緩やかにしかもはっきりと境界が区別できる場が安心感を与えます。

[みんなが集う場]

特別な部屋を設けなくてもよい、もちろん治療の場ということを考慮した上でのことですが、ロビーの一角やデイルームなど少し広い場所であれば、ロビーコンサートのようにオープンな音楽の時間を作ることで、みんなで演奏に耳を傾けたり、一緒に声を合わせて歌ってみたりといった場を設けることができます。

ときには簡単な楽器を演奏してもよいですし、ミュージック・イン・ホスピタル、みんなが病いを超えて集える、音楽のある療養環境が、治療や療養、養生の場に、安らぎとくつろぎの時空を生まれます。

個々の治療、療養という日常生活から切り離された場に、音楽は、生活の中の潤いともいえるハレの時空を作ります。いつもは静かにBGMが流れているロビーやデイルームが、少し積極的に音楽を使う時間を設けることで、みんなが集うハレの場になります。

流行り廃りはありますが、精神科病院で、定期的にオープンな催しとしてディスコタイムやダンスタイムを設けたり、コンサートを開いたりしているところもあります。



[一人静かに過ごすことができる場]

ひとには、そっとしておいて欲しいとき、ゆっくり先々のことを考えてみたいとき、ただ何にもとらわれず一人静かに過ごしたいとき、一人だけになりたいときがあります。

治療ということでプライベートな時間が少なくなる病院や施設にいるときだからこそ、そうした空間が必要な場合があります。一人静かにすごせる空間があるといいものです。

ヘッドフォンを通して、すきな音楽を聴き、目を閉じてじっと静かに過ごす。そんな空間があれば、病院や施設というプライベートな空間の少ない場で日々過ごす入院、入所者のみではなく、看護に疲れた家族にも、そこで働くスタッフにとっても癒しの場として思いにふけり、ときをわすれて過ごすことができる場になります。

[音刺激が使える環境調整された場]

音楽療法、とくに音刺激を利用する場合には、音や音楽に注意が集中できる環境があるとよいでしょう。ドアの位置や窓の高さ、大きさ、天井の高さ、部屋の広さなど、直接音楽と無関係に想われる物理的環境がセッションに影響します。

ひとの出入りや、動きが気になり集中できないことがないか、夏の厳しい日差しや、西日の熱さ激しさがストレスになったり、セラピストや歌詞ボードが、まぶしい窓の方向になっていないかなどへの配慮が必要となります。

大きな窓は、外が見えて明るく季節感を視覚から得ることができるなどの利点もありますが、気が散るというマイナス面も考えられます。まったく窓がなく壁に囲まれた部屋も、閉鎖的なで息苦しい気分になります。

また、ひとは自分が発する音は平気であるのに、周囲からの音には過敏になりやすいものです。室内の音の響きや聞こえやすさも影響します。高齢者や聴覚障害者に対しては、音域、残響により聞こえ難いこともあり、集中して聴ける、聞き取りやすい場を提供したいものです。

自閉症など発達に障害がある児童には、きらきらした楽器があると、それにとらわれ活動が停止したり、光に向かって走り出したり、外部の音が気になって、働きかけられた音に注意が向かないといったこともあります。

照明の明るさも気分を沈めたり高めたりします。適度であれば落ち着いた雰囲気になることもありますが、暗いと陰気になり活動性が落ちるし、高齢には文字が見え辛いなどセッションの参加意欲にも左右します。

リハビリ用ゴムマットを敷いた音楽療法室は、音がよく吸収され、児童がどんなに騒いで、大きな音を出しても、転んでも怪我もなく安心な場として設定されます。

しかし、マットのフワフワ感の触覚刺激に反応し、児童はその刺激を確認するように転がる動作を繰り返し、その他の指示が入り難くなってしまうこともあります。対象の心身の状態によっても異なりますが、そうした環境から受けるさまざまな刺激に対しても、必要な調整が可能な場があるとよいでしょう。

[機能改善などリハビリテーションができる場]

音楽をもちいた療法では、音楽により身体の運動を引き出したり、動きを助けるなど身体機能のリハビリテーションにもちいる場合があります。また、音や音楽の体感音響振動の神経生理学的効用を利用するものもあります。

このような用い方をする場合には、音や音楽が利用できる環境と、実際におこなう機能改善などのリハビリテーションに必要な設備とが、ともに整備された部屋が必要になります。



手記「音楽療法を体験して」  中村晃一

【はじめに】

精神障害者を対象とする回復援助においては、「励ます」「頑張らせる」のではなく、まずは力を抜く作業から始まる。

その後も援助者が指導し修正していくのではなく、対象者が自ら回復する能力を信じて見守り、彼らが自分の力で心の傷に向き合っていくという過程をたどる。つまり援助者が行う援助とは、そこへ向かう“ゆとり”へと導くことである。当然ながらその援助は「安らぎ」という場の中で行われるべきである。

これまで精神科の病院やデイケア、また老人施設において、幾人かの音楽療法士のセッションを見学あるいは参加させて頂く機会を得てきた。

その中で福祉活動としてではなく療法としての音楽とはなにか?と様々な意見を聞かせて頂き、またそのセッションの中に自らの身を置くことで、音楽療法とはなにか、自分なりに感じたことそして期待することを述べていきたい。

【音楽がもたらす“イメージ”】

「音楽」がもたらす効果(影響)は様々あるが、自分自身が音楽療法に身を置く機会を得た中で一番に注目しているものは、“様々な感情が自然と突き動かされてくる”という事実である。これは驚きにも似た感覚である。

それはスピーカーから伝わってくる音よりも実際の演奏から振動として伝わってくる音が拍車をかけているようでもある。自分の意識的な操作ではなく、懐かしさ、せつなさ、興奮、痛みなど情緒をともなう「漠然とした」回想ともいえる心の作業が自然に行われてしまう ―――これが「音楽」特有の効果ではないか。

この“漠然とした”情緒的回想とは、まさに自分のストーリーを振り返る作業の前段階でもあり、言い換えれば音楽がもたらす効果とは、対象者が抱えてきた、“心の傷に向きあう「作業」の準備”がなされているともいえるのではなだろうか。

つまり次の段階である自分に向き合う、あるいは言語化する(組み立てていく)力のない段階の対象者には「音楽」というもので、この「漠然とした」感覚、いわゆるイメージを持つことができるのではないだろうか。ならば回復過程において「音楽」がもたらす効果は大きい。

音楽がもたらす“漠然とした”感覚を療法としての手段と捉えていくならば、当然のことながら、同時に安心してそのイメージを巡らせる場の保障が必要である。「音楽療法の場は安全の場」という感覚を対象者に与えることが大切であると思う。

【集団セッションの場でよく見る風景】

我々は周囲のスタッフから「音楽療法があると盛り上がるね」「みなさん楽しそうね」「○○さんは歌が好きだから音楽療法の日を楽しみにしているのよ」という言葉を聞く。当然これは褒め言葉であり音楽療法に対する期待の現れであると思われる。

実際いくつかの音楽療法の集団セッション場面に参加していると、その結果は言葉通りである。しかし、意地悪な見方をすると、まるでその言葉の期待に答えなくてはいけないかのように「盛り上がるようにやらないと」「時間いっぱい楽しませないと」ということを第一目的にしているかのような様子にも写る。

椅子を半円状にきちんと並べ、大きな声で進行し、歌っていない対象者に「大きな声で!元気よく!」と促し、リズムに合わせて楽器を鳴らすように指示する。

そしてセッション後は参加者の表情が明るかった、いつもより楽器を振る手が動いていた、リズムに乗れてなかった、声が出ていた、ということに注目し、次回はもっと盛り上げるために参加者の好きな曲をインタビューする。

確かにその要素もとても大切な要素の一つであることは間違いない。しかし、再び意地悪な見方をするならば、対象者に「集団の流れに合わせないと」、「雰囲気に沿って楽しそうな表情をしないと」という無言のルールを強制し、負担をかけているようにも見える。 

ここに果たして「安心して参加できる場」の保障があるのだろうか。



【ある対象者の声】

いい例がある。以下は2年前、ある精神科クリニックでのデイケアに通所し、週に一度、半年間、音楽療法参加した「境界性人格障害」と診断された女性(参加当時30歳)の声である。彼女は最近になって、あの音楽療法で少し前進できた、と私に語ってくれた。

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『私はアルコール依存症の父親の元で育ちました。その為、小さい頃から常に私の生活の中には暴力がありました。

父は不機嫌でいつも突然、怒鳴り始め、怒られてそして暴力を受ける。でもそんな父もお酒を飲む時は違いました。機嫌が良く、よく笑い、よくしゃべる。そして私と弟によく話しかけてくる。

小さい頃はそれでもそんな機嫌の良い父が好きでした。でもだんだん大きくなるにつれてそんな父が嫌いになっていきました。

次第にお酒を飲むと、機嫌が悪くなるようになり、何もしていなくても突然怒鳴られ、テレビを観て笑っただけでも「子供がこんな番組なんか観るんじゃない!」とテレビを消される。たちまち家の中はシーンと静まりかえり、そして私と弟はビクビクしながら何も言わずご飯を食べ続ける。

そのうち私は父の顔色を伺うようになっていく。小さかった頃の私は寝る前に必ず神様に祈り続けていました。

「どうか明日はお父さんが暴れませんよう・・・」

そして私は大人になってから自殺未遂を繰り返してきました。境界性人格障害という診断名をもらい、複合型PTSDを抱えながら生きている。自分という存在に価値を見出せないまま生きています。

私が音楽療法と出会ったのは、通院しているクリニックにあるデイケアでの事です。これまで、学校や社会に出ても集団という中に溶け込むのが苦手で、周りのみんなが盛り上がり笑えば笑う程、私の感情は反対にどんどん冷めていきました。

みんなの温度についていく事ができず、その内にみんなの輪から外れていきました。私は言いようのない悲しみを覚えますがそれをどうにか隠そうと、わざと強気な態度を見せ反発する、そうして最後は必ずのけ者になっていました。そんな生き方しかできず、私は気が付けば集団を避けて生きていました。

そんな中、担当医の勧めでデイケアに参加した時に音楽療法に顔を出しました。そして生まれて初めて私は集団の中に溶け込むという感覚を知ったのです。

そこではまず失敗しても下手でも私を責める人はいません。上手くできると必ず笑顔で音楽療法の先生や仲間が褒めてくれます。好きな時間に参加し、気分が乗らなければそっと退出しても何も責められませんでした。

無理矢理やらせようとする事はなく、私にとって安心して参加できる場所であり、次第に有意義にのびのびと過ごせる場所になっていきました。ただ聴いているだけでも、そこにいてもいいのです。もともと集団が嫌いなのか、音楽が嫌いなのかわかりませんが、こういった場所を避けてきた私にとって音楽の楽しさとそして何より集団の中で過ごすという事を知りました。

そこで知り合った私の友人はデイケアには来なくなりましたが、その後も音楽を楽しむようになり仲間でバンドを組み音楽を楽しんでいる人もいます。

そして私と同じように集団を避けて、みんなと楽しみを共有できなかったある友人は、自分で歌う楽しさを知り、仲間と過ごすことを知り、一緒にカラオケにも行けるようになったと話してくれました。私たちのような生き方をしてきた人間にとってこれは変化なのです。たったこれだけのことかと思われますが、これは大きな前進なのです。

私は音楽療法の良さを知っています。責めない、やらせようとしない、なにもしなくていい、ただ耳を傾けているだけでいい、自由に感じるだけでいい、そして自然に笑いたい時だけ笑う、無理に笑わなくてもいい、そんな音楽をそんな場を私たちは求めています。   

どうかその良さを失わないでください。無理矢理は絶対にやらせないでください。いくらみんなが笑っていても、いくら楽しい雰囲気でも、時に私たちは何もなくても突然深い悲しみに囚われしまう事があります。

それをどうかわかってください。集団に合わせるのが難しいのです。周りに合わせることがどれだけのエネルギーを使い、苦しくなるか知ってください。それを責めないでください。集団の流れに乗れないからといって見捨てないでください。

きっと音楽のある生活は楽しいものです。それに気付けたことが嬉しい。それは大きな前進なのです。』

【最後に】

「安心して参加できる場」を保障する―――これらはとても基本的なことで、なにを今更とお叱りをうけるかもしれないが、臨床経験を重ねる中でも常に振り返りをしておかなければいけない大切な約束事であると思う。

そういう私もかつて精神科作業療法での集団レクリエーションを行い、その後のアンケートで衝撃をうけた一言がある「せっかく一所懸命やってくれているのに喜んであげないと悪いから」。

集団セッションが滞りなく進行し、それなりに対象者も進行に沿って参加して下さり、そこそこ場が盛り上がると我々はなぜか安心する。安心することと引き換えに、本来、音楽がもたらす効果を潰している事はないだろうか。

音楽療法の集団セッションは様々なものを対象者にもたらす。集団の中で、仲間といることそれ自体が大切であり、更に仲間がいるからこそ突き動かされた感情に身を委ね、その感情を共有することができる。

つまり、音楽療法の集団セッションは言語が必ずしも必要でないシェアリングである、ということもすばらしい。だからこそ、その効果を潰すことなく、「安心して参加できる場」作りを大切にして欲しい。

音楽がもたらす効果と、集団のもたらす力が、対象者の回復を優しく包む。同時に対象者の回復の力を信じる。これが援助者に求められているような気がする。

これは私自身への課題でもある。